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レアールにある中世の遺跡「ジャン1世こと“無怖公”の塔(La Tour Jean sans Peur)」を見学しました!

パリの中心・レアール地区にある遺跡
ジャン1世こと"無怖公"の塔(La Tour Jean sans Peur)を見学!




前からずっと気になっていたけど、なかなか行けずにいた
『歴史的建造物指定☆中世の塔にやっと行ってきました!

ここはちょうど1200年頃に作られたパリの"市壁"の北側にあたる場所で、
1270年に聖王ルイ(ルイ9世Saint Louis)の甥のアルトワ公ロベール2世がいくつかの建物と土地を購入し、
原型となるアルトワ館(Hotel d'Artois)を建築、その後アルトワ、
フランドル伯を継いだブルゴーニュ公フィリップ2世(Philippe II de Bourgogne)が主となり、
ブルゴーニュ館(Hotel de Bourgogne)と呼ばれたそうな・・・




↓↓塔の入り口にあるパリの市壁と塔の位置を示す地図。



そして、後を継いだ怖いもの知らず・無怖公"と呼ばれたジャン1世が、
1411年に、この塔を建築した
そうです!ちなみにお隣にあるのは小学校で、
校庭の一部は館があったところらしいです。

実はワタクシ、隠れ中世ファン(^-^)♪かなりワクワクして、いざ入塔(笑)!

入口左手にお土産屋さん・・・で、向こうの意味不明な丸い壁、、、わかります??
なんか変??と思ってたら説明があり、なんとこれは1200年頃に作られた市壁にあった塔でした!


のっけから、すごい遺跡でお出迎えされ、こっちの方が古い遺跡なのかぁ・・・と感動しつつ、まずは地下から見学!



ちなみに塔の高さは21m、地下2階、地上6階建て!

やっぱり地下は少しヒヤッとします・・・ミステリアスな雰囲気にドキドキ(笑)♪

この壁も、1200年頃の城壁☆★
うきゃ〜っ\(^o^)/萌えぇぇぇ(笑)!


さらに奥へ進むと、中世当時に使われてた机や暖炉があって、当時の生活を想像できました♪

一緒に行った友人が、暖炉を見て一言:
「この暖炉で焼いた、肉汁たっぷりの骨付き肉をかぶりつきたい気分になった(≧▽≦)!!」・・・
友達のアタマの中では、中世=ギャートルズの世界らしいのです(笑)・・・



ギャートルズのコメントにめげずに(笑)、次は地下1階を見学!
この日は特別展"中世の風俗"をやってました!




お出迎えはこちら・・・いったい何???

1393年1月28日に「燃える人の舞踏会」(Le Bal des ardents)と呼ばれる事件があり、
その衣装
のコピーだそうです。恐ろしい名の舞踏会ですが(^^;)・・・



当時、王妃イザボー・ド・バヴィエールが侍女の結婚を祝して、仮装舞踏会を開催。
国王シャルル6世が5人の貴族と写真のような、
毛むくじゃらの格好で互いを鎖で繋いで踊る「野蛮人の踊り」(Bal des sauvages)をして、
宴を盛り上げようとしたんだとか。


ついでにちょこっと、この時代の説明をさせていただきます♪



シャルル6世は、別名・狂気王(Le Fol)と呼ばれた王様!
父王が亡くなると、11才で王となったのです。
ところが幼かったことから、叔父のブルゴーニュ公フィリップ2世(この塔の元を作った人)が摂政とりました。

王様は遺伝性でちょっと頭がおかしいといわれて、執務ができないなら、
代わりにってことで、後に王弟のオルレアン公ルイVS叔父さんのフィリップ2世とで、権力抗争があったそうです。


 シャルル6世

そうしたところ、王妃イザボー主催の舞踏会があり、そこに酔っぱらってた王弟ルイが現れ、近くでよく見ようと、松明を手にして近づいたものだから大変です。その火がダンサーたちの衣装に燃え移り、次々に広がって大惨事(>_<)!
幸い王様は、近くにいた叔母に消火されましたが、他の4名は焼死してしまったそうです。→→→


そのことから、王シャルル6世はこの日から、正真正銘、気が狂ってしまい・・・
執務ができない状態なので、王弟ルイと叔父のフィリップ2世、その息子ジャン1世の間で仁義なき戦いが、
さらに激化したそうです。



さてさて、塔の見学に戻って、こちらは3階!吹き抜けになってました。


塔の間から見るパリの空は、不思議な美しさがありました♪



続いて4階。ここは、兵隊さんたちが控えてたところだそうです。



奥には、なんと!お手洗いが存在していたそうです!!
再現されているトイレ!
"パリで一番古いトイレだった"と言われています!!

洗面台も完備(笑)!

暖炉の裏がトイレになっているので、
冬でもあったか!中世時代だけど、快適なトイレライフだったのでしょう(笑)!?


そして5階は、館主ブルゴーニュ公ジャン1世=ジャン無怖公が暮らした部屋!!!




ジャン1世・・・人形とはいえ、不気味です(笑)・・・。。。



この部屋の入り口に、1877年に発見された、当時のタイルが!!
良い状態で発見されたものですよね〜!感動★☆


ところで、ジャン無怖公の名の由来ですが、十字軍遠征の際に、後先考えずに敵陣に突っ込んでいき、結局、捕虜になってしまいました。その勇猛さ(無鉄砲さ?!)から、無怖公と呼ばれるようになったそうです!


さてさて最上階に到達する前に、この天井、見て下さい!!!

ジャン公の権力があったことを示す、豪華な装飾天井です!!



サンザシ、樫、ホップ等の植物の素晴らしい彫刻がほどこされています♪

窓の紋章も素敵です!









階段はこんな感じで、ところどころに重々しい扉がありますが、残念ながらこの先は入れませんでした(;_;)



いよいよ、最上階の6階です!!

木の骨組みは当時のままだそうです!!

ここは見張場の役目を果たし、怪しい人が来たら、上から石を落して退治していたのだとか(笑)!


奥に展示されてるのは、中世当時の衣装のレプリカ!!

歴代ブルゴーニュ公で・・・
左の赤がフィリップ2世、中央がジャン無怖公、右がフィリップ3世です。



ということで、パリのド真ん中にある中世の塔、パリにいることを忘れ、
タイムスリップして楽しめるところでした!!

ジャン無怖公の塔 La Tour Jean sans Peur
20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris
01 40 26 20 28
13:30〜18:00
夏季:水〜日曜日、冬季:水、土、日曜日
入場料5ユーロ

***オマケ***
気が狂ってしまったシャルル6世のその後、気になってる方もいると思うので、お話の続きを・・・(^-^)!

オルレアン派とブルゴーニュ派との仁義なき戦いが続くなか、王妃のイザボーは、狂った国王シャルル6世を見限りました。

そして、こともあろうか王弟のルイの愛人へと・・・その頃からオルレアン派の勢いが強くなりました。

一方、ブルゴーニュ派というと、ブルゴーニュ公フィリップ2世が亡くなり弱勢・・・息子のジャン1世は、当時勢いの強かった隣国イギリスと手を組んでいきます・・・。

ジャンとルイの憎悪は、どんどん激しくなりました・・・。


イザボー王妃

そして、1407年11月23日の夜、王妃イザボーが死産した時に、
ジャンは、王様がそのことで話がしたいと、偽の王様の手紙でルイをおびき出し暗殺!!!

王弟オルレアン公ルイ

こうして権力に近づいたジャンは、もともとパリにあったブルゴーニュ館を改装、新たにこの塔を建てたそうです!

王弟ルイが暗殺された後、王妃イザボーは、これを機にブルゴーニュ公ジャンに乗り換えます!
一連の行動から、王妃イザボーは悪女として名高いのです(笑)・・・。

一方、オルレアン公ルイの息子シャルルが、ジャンに対し復讐を誓います。
その後、妻を亡くしてたシャルルはアルマニャック公の娘と結婚し、
舅のアルマニャック伯ベルナール7世を頼り、反ブルゴーニュ派のアルマニャック派(旧オルレアン)を集結させていきます。


こんな理由から、この塔はジャンが、実は復讐をおそれ、
彼の身を守るために引きこもり?ができるように作ったとも言われてるのです!
そして、この内乱に、ずる賢いイギリスのヘンリー5世が両派を利用したことから、
今まで小康状態だった100年戦争が再熱していったと言われています。


ヘンリー5世

イギリスがノルマンディーを攻め落とすと、
ブルゴーニュ公ジャンと、シャルル王太子(後のシャルル7世、彼は5男ですが兄たちはそれまでに死んでしまったそうです)が共闘しようとした交渉の場で、なんとジャンが暗殺されてしまいます!!

その後、ブルゴーニュ公を継いだ息子のフィリップ3世は、イギリスと正式に手を結びます。
一方、王太子シャルルは皆に責められ、ロワール地方のブールジュに引きこもってしまいます。

優位に立つイギリスは、狂った王シャルル6世(実際の権力者は王妃イザボー&ブルゴーニュ公)と、
トロワ条約を交わしてしまいます。

この条約の内容は、英王ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘カトリーヌを結婚させ、フランスの王位継承権をイギリス王が持つというものでした。

こんな理由から、この塔はジャンが、実は復讐をおそれ、
彼の身を守るために引きこもり?ができるように作ったとも言われてるのです!
そして、この内乱に、ずる賢いイギリスのヘンリー5世が両派を利用したことから、
今まで小康状態だった100年戦争が再熱していったと言われています。


シャルル7世

イギリス寄りになった悪女&シャルル王太子の実母イザボーは、「シャルルは王の子」でないと宣言!!
これにより王太子シャルルは、更に引きこもりになってしまいます・・・。

それから2年後、英王ヘンリー5世は、パリ郊外のヴァンセンヌで死に、
さらに2ケ月後、フランス王シャルル6世が死んでしまいます。

この2人の相次ぐ死により、1歳にもみたないヘンリー6世が、
フランスとイギリス、二国の王位継承権を持つことになっていまいました。



こんなややこしい状態になった時に、救世主として現れたのが、あのジャンヌ・ダルクです!




ジャンヌ・ダルク

「フランスは、女(イザボー)によって破滅し、娘(ジャンヌ・ダルク)によって救われた」 と言われたそうです!!納得(笑)!!

噂では、王妃イザボーは最後の子供を死産したのではなく、実はそれがジャンヌ・ダルクだった!
兄妹だから王太子シャルルの秘密を知っていたという説もあるのだとか!!

ジャンヌ・ダルクが登場するまでには、こんなややこしい背景があったんですね〜。
中世は時代背景や人間関係がとても複雑ですが、本当におもしろいです!!







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